目標とは、戒め?なぜ「目標」という言葉は、一定の窮屈さを感じさせるのでしょうか。その理由は、「目標」を考えるとき、人は無意識のうちに「私的な欲望や欲求をわきに置かなければならない」と感じるからではないでしょうか。まるで一種の強迫観念のように、「自分のダメな部分を克服するための戒め」と捉えられるケースも多いものです。実際、Googleで「新年の目標ベスト10」と検索すると、一位は「ダイエット」です。まさに戒めの象徴ですね。しかし、目標とは戒めであるべきなのでしょうか?コンフォートゾーンから自分を出すための手段として、「戒め」の方が機能する場合も、もちろんあると思います。しかし年単位やそれ以上の期間に渡って追いかけるような中長期的な原動力が「戒め」だった場合、エネルギーは長持ちしません。目標は不要か?では、目標は不要かというと、間違いなく必要です。経営コンサルタントの小宮一慶氏の「散歩のついでに富士山に登った人はいない」という言葉がありますが、目標がなければ成果に繋がらないケースは多々あります。走り高跳びのあのバーがなければ、恐らく人類は今のように高く跳ぶことはできなかったでしょう。自分を前に進める「目標」を設定するために「目標」が辛く感じられる理由は、そこに「目的」がセットになっていないからかもしれません。この二つの言葉が明確に区別されていないケースは意外と多いものです。コーチングセッションでも、「目的」について質問していたはずが、いつの間にか「売上100億円」「給与2,00万円」などの「目標」に話がすり替わっていることがあります。しかし、そのような「目標」だけを聞いて、人はワクワクするでしょうか?「売上100億円を目指すぞ!」「俺は年収2,000万円を目指す!」その言葉だけで、周囲はもちろん自分自身も、モチベーションを維持できるのでしょうか?その時に感じるワクワクは、本質的なものというよりは、「それを宣言しちゃっている自分」に対する一過性の興奮でしかないようにも思えます。そこには「なぜその目標を達成したいのか」という「目的」が必要です。「当社が影響力を持つことで、世界の貧困をなくすことができる。そのためには、まずは今年中に売上100億円の規模に成長しなければならない」「足の不自由な親に家をプレゼントしたい。給与が2,000万円になれば、それが実現できるんだ」そのように「目的」が目標とセットになって始めて人は心が動かされますし、自分自身のモチベーションを高めてくれる、大切な機能を発揮します。 その意味で、私は「目的は、目標に血を通わせる力を持っている」と思います。「その目的が自らの利益を超えた利他的な精神によるものであればあるほど、人はそれに共感し、惹きつけられ、経営者と同じ志を持って共に戦ってくれる」(西田文朗氏、2007年、強運の法則)何か/誰かのためになる「目的」を設定すること心理学者のアブラハム・マズローの「欲求の段階説」によれば、「愛と帰属の欲求」や「自己実現の欲求」は、他者との関わりの中で認められたいという人間の本質を示しています(1943、A Theory of Human Motivation)。しかし、いざ目標設定をするとなると、人は他者との繋がりを切り離し、自分自身を戒める方向に走ってしまいがちです。つまり、欲求をわきに置く傾向があります。「目的」は、その流れを変える鍵になります。「他者や社会にどんな影響を与えたいのか」という問いを持つことで、目標は生きたものになり、「戒め」ではなく、「自分自身を前に進める力」となるのではないでしょうか。